何事も「結果が全て」である。
競争社会日本においては、受験から始まり、スポーツ、仕事など勝負することばかり。
勝者は称賛されるが、敗者には冷たい社会でもある。
勝者は、「運も実力の内」と言われるとおり、通常起こらないようなラッキーな出来事があっても、勝てば実力であるとみなされる。
敗者には、どんな事情があろうが、舞台裏でどんな美談があろうが関係ない。
「敗軍の将は兵を語らず」
どんな事情があったにせよ、口にすれば「言い訳」だの「負け犬の遠吠え」だの好きなことを言われる。
「虎は死して皮を残す」、「人は死して名を残す」というが、後世に名を残すのは勝者のみだ。
「結果が全て」という言葉に非情さを感じるが、仕事においては、まさしく非情そのものである。
スポーツでは
1984年ロサンゼルス大会無差別級の山下泰裕選手とエジプトのモハメド・ラシュワン選手の決勝戦は、名勝負として語り継がれている。
大会中に右足を痛めた山下選手に対し、ラシュワン選手は「その痛めた右足を攻めることなく戦った」として、フェアプレーと称賛された。
この美談に関しては、「ラシュワン選手のフェアプレーは、正々堂々と勝負したことこそフェアプレー」という話もある。
もう一つ、1992年の夏の甲子園大会。
明徳義塾(高知)VS星稜(石川)で、後の巨人軍→メジャーリーガーの松井秀喜選手に対して「5打席連続敬遠」。
この試合では、「正々堂々と勝負しろ!」とヤジが飛ぶなど、社会問題にまで発展した。
「勝つためにルール内でやったこと」と言う人も多数いる。
「賛否両論」、どちらが正しいかは個人の価値観だ。
この2つの例は、勝者・敗者ともに記憶に残っていること自体、意義がある。
「結果が全て」とは言いつつ、勝者にも敗者にも「人間味」を感じることができる。
もちろん、スポーツを仕事にしている人にとっては、「結果が全て」という強い意志を持っている人ばかりだろう。
仕事では
経験上、仕事においては、非情なまでに「結果が全て」となる。
イリーガル(違法)でさえなければ、「勝ったもの勝ち」だ。
部下の成果を独り占めする者もいれば、他人を陥れる者もいる。
仕事の成果や貢献度に関係なく、人間関係のみで評価され「昇進」する者もいる。
「なんであいつが!」って思っている人、たくさんいるだろう。
アンフェアなことは腐るほどある。
世渡り上手で、昇進する勝者がいる一方で、職場は敗者にとことん厳しい。
「人一倍努力してきた者」や、「たくさんの犠牲を払ってきた者」に対して、情をかけてくれることはない。
「個人の事情」を考慮してくれるほど、仕事は甘くないのだ。
仕事で結果を出すために
まずは、意識改革だ。
「いい人」を卒業して、クズたちとも戦わなければならない。
周りも同じように「いい人ばかり」と思っていては痛い目にあう。
フェアプレイからかけ離れ、相手を蹴落とすようなヤツがいても、文句の一つも言えない。
「生き馬の目を抜く(※)」ようなヤツは、そこら中にいる。
※ 生きている馬の目を抜き取るほどすばやい。ずるくて油断も隙もならないことのたとえ。
「世知辛い世の中」であると思うかもしれないが、職場に情けがあると思うこと自体ナンセンスだ。
もちろん、「いい人」も少なからず存在する。
こういう人は、職場以外でも「ずっと付き合える人」だから大切にしてほしい。
職場で昇進したいと思っている人は、理不尽な世界のなかで、とにかく結果を出すことだ。
所詮、同じ職場に就職した者たち。
能力の差など、ほとんどない。
「正々堂々勝負する」なんて甘ったれたこと言っていたのでは、いつまでも負け続ける。
勝てば官軍だ。
勝つまでは、どんな手を使ってでも勝ち続けなければならない。
その武器となる「知識」と「技能」のスキルアップは怠ってはいけない。
一緒になって戦える同士を見つけることも必須だ。
「魚は頭から腐る」というが、改革するには、自分が頭にならなければならない。
一方で、「開き直る」ことも選択肢の一つ。
「昇進=勝者」かどうかはわからない。
ならば、「勝ち続ける必要もない」
在職中の一瞬、権力を握り、やりたい放題したいヤツは放っておけばいい。
定年後、相手にする必要もないのだから。
昇進のために、くだらない付き合いをするヤツも多数いるが、自分の時間や家族を巻き込んでまですることではない。
そこは、個人の価値観で判断してほしい。
仕事は結果が全て!
騙し合いとまではいいませんが、何事も相手との駆け引きがあります。
柔道でも野球でも。
その点、ゴルフ⛳はいいですよ!
誰にも邪魔されません。
自分との闘いです!